長良川下流沿いの地形と設備 その3 岐阜市長良橋下流右岸堤防の記念碑(長良古川、古々川締切堤の記念碑)

岐阜市の忠節橋の北から長良橋の西まで、中学校、県立普通科高校、県立商業高校、県立こども医療福祉センター、県立特別支援学校、地区の公園、小学校、地域包括支援センター、郵便局、子ども相談センター、岐阜メモリアルセンター(球技場)、国際会議場など数多くの公共の建物が連なっています。その場所は、以前長良古川が流れていた場所です。

現在、河川は一般的に堤防に仕切られ、その中を流れていることが多いため、河川本来の流れをなかなか見ることができていません。河川は蛇行をしたり、網状に分かれたりして流れることが多いです。長良川も昭和初期には現在の長良橋の下流部で古川、古々川に分かれ、流れていました。昭和8年から14年(1933年~1939年)にかけて、古川と古々川を堤防によって締め切る工事が行われました。その締め切りの記念碑が長良川下流の右岸堤防に設置されています。

記念碑の隣にある表示板によると、昭和初期まで3本(現在の長良川の流路、古川、古々川)に分かれていた流路は、扇状地の上を地形に応じて自由に流れることで生まれたものですが、主要な流れは現在の長良川の流路であったようです。締め切る前は、大雨が降ると、長良川の右岸地域を流れていた古川・古々川にも洪水が押し寄せ、周辺の家や田畑を荒らしたとのことです。そこで、古川・古々川を締め切って、長良川を一つの川にするとともに、長良川本川の右岸堤防を平均して約100m北へ移して、河川幅を拡げ、強固な堤防を築く治水工事が行われたのです。

図は2種類ありますが、上図は記念碑(×地点)周辺の地質図で、下図は地形図に古川と古々川の流路と記念碑の位置(×)、写真撮影の向きを入れたものです。写真が五種類ありますが、上と中上、真中の写真は記念碑を南から撮ったものです。上の写真はパノラマ撮影で、中上と真中の写真は立体視ができるように同じような写真が二枚並べてあります。それぞれの写真の白丸を、左の写真は左目で、右の写真は右目で見て、重ね合わせるようにすると立体的に見えます。中下と下の写真は、古川の流路の場所をパノラマで撮ったものです。中下の写真は県立こども医療福祉センターと県立商業高校の境付近で南に向いて撮ったもので、撮影の向きを下図の下向きの赤色矢印で示しました。下の写真は県立商業高校の南東に隣り合った公園(早田西公園)駐車場で北に向いて撮ったもので、撮影の向きを下図の上向きの赤色矢印で示しました。(地質図はHP「ジオランドぎふ」より 岐阜県博物館提供)








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