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板取川沿いの地質、露頭 その1 美濃市牧谷小学校南の河原の石 :美濃市蕨生下屋敷板取川対岸(右岸)の河原

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  2020年11月16日~12月27日には、板取川沿いの岩石を24回にわたって紹介しました。その際は、地質図を使って紹介していませんでしたので、今回からは地質図も掲載しながら、板取川沿いの露頭などを紹介したいと思います。そのため、重なって紹介する露頭がありますが、御了承ください。 河原には、その上流の川(支流も含む)の周囲に分布する岩石が削られ、運ばれて、転がっています。そのため、河原の石を見ると、その川の上流にどのような岩石が分布しているかがわかります。美濃市の牧谷小学校の南(蕨生下屋敷の対岸)の板取川右岸に、河原の石が広がっています。夏には、キャンプを行っている方が多くみえる場所です。そこにある石(岩石)を今回と次回で紹介します。今回は、この河原で見られる美濃帯堆積岩類(チャート(中上の写真)、砂岩(真中の写真)、泥岩(中下の写真)、石灰岩(下の写真の左)、緑色岩(下の写真の右))について簡単に紹介します。岩石それぞれの特徴や岩石の見方については、2021年8月9日~9月8日の「河原の石編その1~20」を見てください。 上の写真は、河原を下流に向いて北北西から撮ったもので、立体視ができるように2枚の写真が並べてあります。写真の下部の●を、左の写真は左目で、右の写真は右目で見て、重ね合わせるようにすると立体的に見えます。地質図(HP「ジオランドぎふ」より 岐阜県博物館提供)において、×地点が河原の位置です。 〇チャート:白色・灰色・黒色とそれらが混ざり合ったものが多いようです。他の石と比べると、かどのある多角形をしているものが多いです。(中上の写真) 〇砂岩:灰色から暗い灰色のものが多く、まるい形のものもありますが、箱型のものもあります。よく見ると砂の粒がわかります。1cm以下の泥岩の岩片が多く入っている砂岩も見られます。(真中の写真) 〇泥岩:つやのない黒色、黒色と灰色が混ざったものが見られます。弱い熱変成を受けて、硬くなっている岩石もあります。熱変成を受けているとホルンフェルスですが、顕微鏡(偏光顕微鏡)で確認していませんので、写真の中にもホルンフェルスと判断した方がよい岩石があるかもしれません。(中下の写真) 〇石灰岩:少ないです。大きいものは見当たりませんでした。白色から灰色で、表面の傷が白く粉っぽく見えます。(下の写真の左)

長良川下流沿いの地形と設備 その11(最終回) 千本松原と宝暦治水之碑 :海津市海津町油島千本松原南端

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  木曽三川公園の南に千本松原がありますが、その南端に宝暦治水之碑があり、岐阜県の最南端部(県境)にあたります。木曽三川公園の駐車場出口から南へ約1 . 1km進むと宝暦治水之碑があり、その間が千本松原です。県境から伊勢湾河口部までは、12kmほどあります。言い方を変えると、岐阜県は海なし県ですが、海から10kmほどしか離れていない県とも言えます。 宝暦治水の中心的な工事が、旧木曽川と揖斐川を分離する油島の 締切堤防の築造です。洪水を防ぐための木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の分流は、明治時代になって、オランダの土木技師ヨハネス・デ・レーケの指導による近代土木技術を用いた本格的な治水工事によって完成したようです。岐阜県の最南端部にある宝暦治水之碑は、デ・レーケによる分流工事後の1900年(明治33年)に建立され、宝暦治水工事の偉業と工事に携わった薩摩藩士の辛酸が記されています。宝暦治水之碑の数10m南には、近代治水百年記念碑もあり、宝暦治水を中心になって推し進めた平田靱負(ゆきえ)、オランダの土木技師ヨハネス・デ・レーケを木曽三川治水の先駆者として紹介しています。 地質図において、×地点は宝暦治水之碑がある場所です。この地質図は岐阜県の地質図ですので、岐阜県以外は地質が記されていません。灰色(a 1 )は主に自然堤防の堆積物で、白色( a )主に後背湿地の堆積物です。a 1 は砂などが堆積して周りと比べてやや高いので、昔の人々は主に家屋や畑として利用し、 a は泥などが堆積しているため主に水田に利用してきました。写真は五種類ありますが、上の写真は、木曽三川公園展望タワーから南を向いて撮った千本松原です。千本松原の左が長良川で、右が揖斐川です。中上の写真は木曽三川公園の駐車場から南を向いて千本松原を撮ったもので、真中の写真は岐阜県境から北を向いて千本松原を撮ったものです。中下の写真は、真中の写真とほぼ同じ位置から北を向いて千本松原と展望タワーを撮ったものです。下の写真は、岐阜県境近くにある宝暦治水之碑を南から撮ったものです。上と中上、中下、下の写真は、同じような写真が二枚並んでいますが、それぞれの写真の白丸またを、左の写真は左目で、右の写真は右目で見て、重ね合わせるようにすると立体的に見えます。(地質図はHP「ジオランドぎふ」より 岐阜県博物館提供) 美濃地

長良川下流沿いの地形と設備 その10 木曽三川公園展望タワーから望む木曽三川 :海津市海津町油島の展望タワーから北と南を望む

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県道23号の長良川右岸堤防道路を南下し、長良川大橋の西詰めまで来ると、その西に高さ65mの展望タワーがあります。その一帯が木曽三川公園で、現在はその公園の南端で長良川と揖斐川が接近し、そこより南はしばらくの間多数の松が植えられた堤防で境されています。千本松原と呼ばれる場所です。 展望タワーから見ると、木曽川、長良川、揖斐川が近付いているものの、一本ずつ区切られているのがわかります。河川は本来、傾斜が緩い場所を流れる際、網状になっていることが多いです。木曽三川も自然で流れている限りは、濃尾平野の下流では網状で流れ、氾濫する度に流路を変えていました。しかし、かなり頻繁に氾濫していたため、人は人工的に堤防を造ったり、堰を設けたり、水門を設けたり、溝を設けたり、近年では巨大なポンプを使って排水をしたりしてきたのです。 ここは、島津藩による宝暦治水の代表的な工事であった油島の締切工事の場所です。江戸時代には、この場所の上流で長良川は木曽川と合流し、旧木曽川(長良川と合流した木曾川なので旧木曽川としておきます)が揖斐川と接していました。そのため、宝暦治水の代表的な工事は、旧木曽川と揖斐川を堤防によって分ける工事でした。しかし、宝暦治水の中でも最も難工事といわれた工事で、多数の犠牲者が出ました。網状流路のように何本もの網目状の流路では、増水すると広い範囲で氾濫が起きてしまいます。そのため、まず三大河川の木曽川、長良川、揖斐川をできる限り一本ずつの河川として、流そうとしたのです。  地質図において、木曽三川公園展望タワーの位置は×で示しました。地質図の左端の黄色、青色、空色、オレンジ色はいずれも美濃帯堆積岩類で、うす空色の記号ありは扇状地堆積物です。養老山地を構成している岩石と堆積物です。写真は5種類ありますが、上の写真は木曽三川公園展望タワーを撮ったもので、中上と真中、中下、下の写真は展望タワーから木曽三川を撮ったものです。中上の写真は北(上流側)を望んで撮ったもので、真中の写真は中上の写真の中央少し右を撮ったものです。中下の写真は南(下流側)を望んで撮ったもので、下の写真は中下の写真の中央を撮ったものです。中下と下の写真において、中央に写っているのが千本松原で、油島の締切工事の場所です。上と真中、下の写真は同じような写真が二枚並んでいますが、それぞれの写真の白丸を、

長良川下流沿いの地形と設備 その9 海津市平田町の大榑川洗堰跡 :海津市平田町勝賀、輪之内町大藪

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  長良川右岸堤防道路をさらに南進し、大藪大橋の下をくぐって再び堤防に上がる手前の右手(西側)にコンビニがあります。その駐車場の南から、堤防道路の下の道路に入り、南へ230mほど進むと、右側に 「長良川大榑川締切跡」の表示板があります。 堰は川などをせき止める構造物ですが、その中でも洗堰は、堰の高さが固定されていて、堰の高さより水が増えると、水が堰の上を洗って流れるタイプのものを指します。ここに築かれていた洗堰は、洪水の時にだけ水が乗り越えられるようにした高さの低い堰で、宝暦治水における工事の一つとして、またその後の工事で築かれたものです(築かれた場所は若干異なります)。宝暦治水は、洪水を減らすために、堰や堤防を設けるなどして木曽三川をうまく分流させることを目的としたものです。本来河川は平地において、網状で流れることが多いです。この地域では、長良川の水が大榑川を使って揖斐川へ流れ込むこともあり、流域で氾濫が繰り返されていたようです。 8月4日「長良川下流沿いの地形と設備その5」でも書きましたが、濃尾平野は、養老山脈と濃尾平野の境界部にある断層(養老断層)の活動によって、平野全体が西へ傾きながら、堆積物を形成しています。そのため、濃尾平野の上を流れている木曽川・長良川・揖斐川は下流ほど西へ偏って流れています。平野の南西部では、その三本の川が互いに近づき、網状流路を形成しながら流れることになります。そして、木曽川と比べて西を流れる長良川や揖斐川により負担がかかり、氾濫が起こりやすくなっています。 図は2種類ありますが、上の図は地形図上に 大榑川の流路を点線で示したものです。赤丸は締切跡の表示板( 平田町勝賀 )がある位置です。堰は複数回造られていますが、実際の堰の位置は一箇所ではなく100m以内でずらして造られているようです。下の図は周辺の地質図で、×地点が締切跡の表示板の位置です。 周辺には第四紀の堆積層が分布していますが、a 1 (灰色)は主に自然堤防の堆積物です。白色の部分は主に後背湿地の堆積物ですので、水田などに利用されています。写真は五種類ありますが、上の写真は 「長良川大榑川締切跡」の表示板です。中上と真中の写真は、その表示板を中央にし

長良川下流沿いの地形と設備 その8 輪之内町の十連坊堤(輪中堤) :安八郡輪之内町十連坊

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  長良川右岸堤防道路をさらに南進します。名神高速道路の下をくぐり、堤防に上がると、右手にやや低い堤防が西方に延びているのが確認できます。これが十連坊堤(福束(ふくづか)輪中堤の一部)で、輪中堤です。この輪中堤は、輪之内町のほぼ北限にあたる位置にあります。前回紹介した1976年9月12日の長良川堤防の決壊時には、安八町内へ流れ込んだ濁流が北方や南方へ広がって流れました。特に、南方は地形的に低いため、濁流がかなり勢いよく流れ込み、名神高速道路の下の通路を使ってさらに南へ流れたようです。しかし、この輪中堤で止められたことによって、南に位置する輪之内町へは流れ込むことはなかったのです。 輪中堤は、ある特定の区域を洪水から守るために、その周囲を囲むようにして造られた人工の堤防です。河川がつくり出した自然堤防の高まりを巧みに利用して造られたものです。その地域に生活する人々にとって、命を守り、生活を守るという自衛策として広まったもののようです。 地質図において、×地点が写真に写っている十連坊堤の位置です。周辺には第四紀の堆積層が分布していて、a(白色)は現河床堆積物および後背湿地の堆積物、a 1 (灰色)は主に自然堤防の堆積物です。×地点の西には、東西方向に自然堤防( a1 )が分布していますが、その場所に十連坊堤が造られています。写真が五種類ありますが、上と中上の写真は長良川右岸堤防から輪中堤(十連坊堤)を望んでパノラマで撮ったものです。上の写真は南西を望んで、中上の写真は南南西を望んで撮りました。真中の写真は上の写真の中央左を撮ったもので、中下の写真は同じ場所を東から撮ったものです。長良川右岸堤防(写真の手前に写っている道路)に対してほぼ直角の方向に輪中堤が延びているのがわかります。下の写真は、輪中堤(十連坊堤)の上から東を望んで撮ったものです。真中と中下、下の写真は同じような写真が二枚並んでいますが、それぞれの写真の白丸を、左の写真は左目で、右の写真は右目で見て、重ね合わせるようにすると立体的に見えます。(地質図はHP「ジオランドぎふ」より 岐阜県博物館提供) 美濃地学 - 地学のおもしろさを、美濃から (minotigaku.com)

長良川下流沿いの地形と設備 その7 安八町の長良川決壊場所(1976年9月12日) :安八郡安八町大森にある斎苑近辺

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今から約50年前の1976年(昭和51年)9月12日、台風17号の接近に伴う集中豪雨で長良川の右岸堤防が安八町大森で決壊しました。現在では、決壊した堤防の跡は残っていませんが、破堤箇所や災害、復旧工事について書かれてある表示板が安八町大森にある斎苑の駐車場の南東に設置されています。北から長良川右岸堤防道路を南へ進み、東海道新幹線の下をくぐって堤防上に進むと、右手の堤防下に高圧線の鉄塔があります。鉄塔のすぐ下流側に堤防からの下り坂がありますが、その付近から斎苑までの80mほどの間で破堤したようです。 表示板によると、堤防が決壊し、濁流が安八町と墨俣町のほぼ全域を襲ったようです。現在では、表示板の東にある堤防(堤内側)は草に覆われた法面が直線的に延び、川側(堤外側)の法面の下半分はコンクリートに被覆されています。破堤後に破堤付近だけでなく、かなり広範囲(表示板によると6 . 9kmの区間)にわたり工事が行われました。 地質図において、×地点が長良川の破堤箇所です。地質からすると、周辺には第四紀の堆積層が分布し、a(白色)は現河床堆積物および後背湿地の堆積物、a 1 (灰色)は主に自然堤防の堆積物です。いずれも河川によって形成した堆積物です。現在では、河川は堤防に囲まれた中を流れていることが多いですが、本来河川は蛇行したり、網状になったりして、洪水のたびに流路を変えながら流れるものです。そのため、人工の堤防で囲まれていなかったときの河川は、平地において自然堤防や後背湿地などを形成していました。平地を流れる河川が大雨などで流量が増すと、多くの土砂が運搬されます。河川の水が流路からあふれる(河川が氾濫する)と、流速は急激に低下し、流路の外側に砂など粗い粒子を堆積します。氾濫を繰り返すと、流路に沿って周囲よりわずかに(数10cm~数m)高い砂などの堆積物からなる土地ができます。これを自然堤防と呼びます。一方、河川の氾濫で本来の流路からあふれ出した水と水中に浮遊している細かい粒子(泥)などは、自然堤防などに妨げられて河川へ戻ることができため、たまって低湿地が形成されます。これが後背湿地です。 写真が五種類ありますが、上の写真は長良川が決壊した場所にある表示板と現在の堤防を西からパノラマで撮ったもので、堤防の内側( 堤内側) です。中上の写真は表示板を撮ったもので、真中

長良川下流沿いの地形と設備 その6 大垣市墨俣町一夜城跡付近の河川 :大垣市墨俣町墨俣の大垣市墨俣歴史資料館周辺

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  大垣市墨俣町墨俣には、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられている墨俣一夜城跡に、城郭天守の姿をした歴史資料館が建っています。その資料館の東に流れているのが、前々回「長良川下流沿いの地形と設備その4」で紹介した天王川の人工河川(江下げ)です。JR東海道線の長良川鉄橋より下流において、長良川右岸(西岸)の堤防道路の西側にほぼ並走して流れています。一夜城跡地付近では、長良川の西側に人工的に掘られた天王川(江下げ)と、中川・五六川・犀川が合流します。合流した後の江下げはさらに下流へ5 . 7kmほど設けられていて、安八町の新幹線鉄橋の下流で長良川に合流しています。そのようにして、中小河川の排水を高める工夫がなされています。歴史資料館の南を東西に流れる犀川のすぐ南側にある堤防は、長良川堤防の方向に対して直角に延びていて、桜堤と呼ばれています。墨俣輪中の北側を守っていた輪中堤が地形的に残っている場所です。1976年(昭和51年)9月の水害では、長良川堤防が安八町で決壊しましたが、その決壊まではこの桜堤の北側で広範囲に起こっていた氾濫を止め、輪中堤として機能したようです。 地質図において、×地点が墨俣歴史資料館です。墨俣歴史資料館(一夜城跡地)付近で、 天王川と中川、五六川、犀川が合流しているのがわかります。 地質からすると、周辺には第四紀の堆積層が分布していますが、a 1 (灰色)は主に自然堤防の堆積物、a(白色)は主に後背湿地の堆積物です。写真は五種類ありますが、上の写真は墨俣歴史資料館を中央付近にして、南からパノラマで撮ったものです。資料館の右手から天王川の江下げが、左手からは犀川が流れ込んでいます。中上の写真は、上の写真撮影場所から東に移動して天王川の江下げを中央付近にして同じく南から撮ったものです。真中の写真は、資料館の南を流れる犀川南岸に沿って延びる輪中堤「桜堤」を東からパノラマで撮ったものです。中下と下の写真は、資料館の中から長良川に並行して流れている犀川の江下げを南に向かって撮ったものです。中下の写真はパノラマで、下の写真は中下の写真の中央少し左を撮りました。中上と下の写真は同じような写真が二枚並んでいますが、それぞれの写真の白丸を、左の写真は左目で、右の写真は右目で見て、重ね合わせるようにすると立体的に見えます。(地質図はHP「ジオラ