一枚の写真から その21 小井土先生のご逝去にさいして
小井土由光岐阜大学名誉教授が2026年1月14日に亡くなられました。77歳。私の大学時代の恩師で、私の師匠であった方です。豪快で、冷静で、頭の回転が早く、変化に柔軟で、先を読みながら活動をされた方でした。少なくとも私が地学(地質)に興味をもち、学び、小中の教員になってからも関わり続けられたのは、この方の影響です。
上の写真は2002年10月のものなので、今から24年前です。市民対象の地質見学会で、小井土先生が現地で根尾谷断層の解説をされているときの写真です。写真の右端に写っているのは根尾谷断層観察館です。我々は「岐阜の地学を学ぶ会」と称して、岐阜県の身近な地質を普及する目的で、一般の方対象に年2回ずつ地学講演会と地質見学会を行っていました。小中高の教員、及び教員経験者数名が中心になって行っていましたが、活動を進めることができたのも小井土先生の後ろ盾があったからでした。先生も可能な限り参加をしてくださいました。誰に対しても気取ることなく、フラットに接する方でした。
出会いは、岐阜大学の1年次。大学受験は地元の岐阜大学教育学部1本にしぼり、高校時代に興味があった数学科が第一志望。第二志望は、高校時代が理数科だったということもあり、理科。その中でも、高校時代の地学が面白かったこともあって地学。でも結局のところ、第一志望の数学科には入れず、地学科へ。入学後、2年上の先輩に影響を受け、1人で先輩達の部屋を訪ねて地学の話を聞いたり、露頭を見に連れて行ってもらったり、岩石の薄片作りをしたり、地質の本を図書館へ行って探したりして、1人地質サークルのような放課後の生活でした。3年の先輩の誘いで地団研(全国組織の地学団体研究会)にも入会しました。そして、1年次の夏休みには小井土先生が中心になっている濃飛団研に全日程参加。ここから、地質がライフワークになったと思っています。
学生からは厳しいと恐れられていた小井土先生。役職的には助手でしたが、若手の大学教員として影響力大。一見、強引で、最初は学生を下に見ているような物言いもありましたが、前向きな者には面倒見のよい先生、学生とともに気軽に活動してくれる先生、学問に対してはシビアで厳しい方でした。一緒に活動してもらったことで印象に残っているのは、2年次に有志で当時出版されたばかりの「みんなで地学を-地団研30年のあゆみ」の読み合う会を小井土先生を囲んで行ったこと(後述の本を批判的に読むことについては、この場で聞いたのだと思います)です。
また、研究者は自分の研究は一流だけれど、細かいことは苦手という方が多い中、小井土先生は事務処理能力も高く、細かいことについてもスムーズにこなすマルチプレイヤーでした。そのようなこともあってか、仕事はとにかく早かったという覚えがあります。
研究者としても一流で、濃飛流紋岩と呼ばれる巨大火砕流堆積物を研究するチーム「濃飛団研」の代表者。1960年代以前は訳のわからない火成岩類ということで、石英斑岩と一括されていた濃飛流紋岩でしたが、それを明確にしようと岐阜県の面積の1/4を占めるとてつもなく大規模な火山岩類の研究に邁進されてみえました。今では一般にも知られている火砕流ですが、その火砕流の中でも非常に大規模なものが一連の堆積過程の中で何度も繰り返して噴出して、濃飛流紋岩が形成されました。その大規模な火砕流堆積物を伴う火成活動の形成史を明確にしたのが濃飛団研であり、小井土先生なのです。大規模火砕流堆積物研究の第一人者です。濃飛団研では、優秀なメンバーが何人も揃っている中、中心的な存在で、てきぱきと指示を行い、誰からも信頼がありました。調査が終わって、各グループがもちよったデータをもとに、地形図全体を見渡しながら地質図の原案を作り上げていく姿はまるでマジックを見ているようで印象的でした。
そのような研究者でしたが、私が学生の時には、「土・日には家族のために仕事はしない。」という言葉を何回も聞きました。今から考えると、息子さん(小井土正亮氏:現在は筑波大の蹴球(サッカー)部の監督で有名な方)が生まれた年は私が大学に入学する1年前。上にはお姉さんもみえたので、家族を大切に土日はいっしょに過ごされていたことが伺えます。
私が小中の教員になってからも、先生に関わらせていただきましたが、その中で感じたのが、原稿作成は非常に巧みだということ。内容の本質を見抜き、現在わかっている段階で専門的なことをわかりやすく書ききってしまいます。だから、地質見学会の案内資料や書籍の編集はお見事でした。
小井土先生から学生時代に影響を受けた印象的な言葉は、「本を読む時は批判的に読むことが重要」ということ。批判的に本を読んだり、人の話を聞いたりすることの大切さを最初に教えてくれた方です。本に書いてあることや人から聞くことが真実だとは限らないです。だからこそ、いろいろな情報を得て自分で考え判断することが重要です。このことは、今の自分が大切にしていることの1つです。また、教員になって関わりをもっていた中で影響を受けた言葉は、「いくら専門的な難しい事項であっても、一般の方にわかるように話ができないようではだめだ。」ということで、実際に市民対象の地質見学会で、当時まだ本にも書かれていないような大規模火砕流堆積物の濃飛流紋岩をわかるように説明されていました。
また、「日本では小学生の低学年のうちに九九を覚え、大人になっても当たり前のように九九ができる。地面の上に住んでいて、地球で生きている人類は、地面の下の状況を理解し、注意を払い、どう行動すればよいかを考えることが九九のように当たり前にできることが重要だ。」と何度か聞きました。火山噴火や地震、気象災害など足元の現象を誰もが当たり前に理解し、対処できるようになることを望んでみえました。その考えのもと、岐阜県の地質図を誰もが気軽に見ることができ、使うことができるようにと願って作られたのがWeb版の地質図「ジオランドぎふ」です。
専門的なことで印象に残っている言葉は、「第四紀の火山はいろいろな現象を見る上ではよいが、箱庭的だ。実際の火山は遙かに巨大で 破局的なものが多い。」ということ。最近、大規模火砕流や破局的噴火についての一般普及書が出版されています。
共立出版の日本の地質「中部地方Ⅱ」の実質的な編集者、Web「岐阜県の地学・よもやま話」の作成者、濃飛流紋岩の専報(論文集)作成の中心者、「ひだ・みの活断層を訪ねて」「みのひだ地質99選」の編集者、岐阜県内の地質情報を集約し詳細地質図を作成してWeb「ジオランドぎふ」に公開(5万分の1の精度で県のWeb版の地質図作成は全国ではじめて)。小井土先生のおかげで、岐阜県の現在考えられている地質情報が網羅されたと思います。
小井土先生の逸話として、携帯電話をもつことを渋ってなかなかもたなかったということがあげられるでしょう。理由は、電磁波を脳の近くで何度も何度も受けるのは脳にとって危険があるでしょう、ということでした。自分で理論的に考え、人に左右されることなく判断されていたからこその逸話です。
もう1つ逸話を。私が学生の頃には、部活についてよいイメージをもっていないからか、小井土先生は部活についての前向きな発言はなく、やるべきではないというような主張をされていました。その後、息子さんは部活でサッカーを行い、サッカー選手、指導者になられました。小井土先生も部活の保護者会長になってトコトン活動されたことを後で聞きました。それからは、サッカーの試合がテレビで中継されると、「今日は帰ったらサッカーを見ないかんで」と言われることがあり、その変化は私にとっては驚きでした。息子さんの影響は大きいと感じたものでした。
私が小中の教員時代に、ある地質の専門の方から、「あの方(小井土先生)は実践が伴っている。だから、書かれたものは信頼できる。」ということを聞いたことがあります。やはり、専門の方々にも信頼されていることをあらためて感じ、納得しました。
2016年の地質学会年会(東京大会)でお会いして、会場外のベンチで少し話をした時のこと。いつもは弱気なこと、マイナス的なことは一切言われない方でしたが、「今年ですべて大学のほうは(大学に関する仕事は)終わって、本当の意味で去ることになったよ。最新の地質情報を得るため今回は来たよ。」とおっしゃり、妙に寂しさを感じたことが印象に残っています。
大学時代は、前述の地団研の考え方や民主的な雰囲気もあり、地学科の先生を「〇〇さん」と読んでいました。そのため、今まで「小井土さん」としかお呼びしたことがなかったですが、本当の私の先生(師匠)であり、尊敬をしていますので、ここではその意味を込めて「小井土先生」と書かせていただきました。
昨年末(2025年11月21日)、NHK総合の番組「中部ネイチャーシリーズ木曽川前編」に出演されて元気なお姿を拝見したので、まだまだ元気でみえると信じていました。それだけに、今回の訃報には驚くとともに、本当に残念に思っています。
今まで御指導いただき、ありがとうございました。
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